人の感情のほとばしりというものは、どこをどう通って流れてゆくのか。
流れても見えなければ意味がない。怒り、喜び、恥じらい、そんな単純な原始的感情の行方。それらはヒトの外見を通して必ず現れる。
自分自身でさえも分からない「心」の場所。目で見て、耳で聞いて、心で感じて、言葉を発するという当たり前の事を一生私たちはしていくのだろうけれど、心で感じるというのは一体どこで行われるのだろう。ものを考えるのとものを感じることには、どんな隔たりがあるのだろう。考えたら頭が痛くなり、感じたら胸がそうなることは・・・。
頭には目があるが胸に心というものが宿っているとしたら、心は直接ものを見たり聞いたりすることが出来ないのです。いつも心は何か流れこんでくるのを待っているのでしょうか。
順三郎と火露見は今日ほとばしり合いました。何をほとばらせたのか?
感情のすべて。心がめくれ裏返りの中のものが溢れ出たようなのでした。一生のうちで一度や二度こういう思いは誰もが体験することだけれど、役者さんという仕事はそれを人の目に見えるようにさせなければいけないものだということを、今日私は改めて知ったのです。
感情が流れたらそれを外に放心させるという、一種の射精のような行為を繰り返し繰り返ししなければいけないなんて・・・。それは絶頂なきオルガズムのような・・・。内側で起こったことを拡声器を使って外に伝え、周りを振動させる力。
その音にはいっぱい雑音が入っていていいと思うのです。だってその雑音はその人にしか出せない特別のものだから。いわゆる個性というものですか、言い方は陳腐になるけれど。
つまり個性というものはあまりきれいな意味合いのものでなく、またそれがいいのです。ふつう、汚いものには目をそらす。で、見ないフリとかしてしまう。自らに個性というものを見出せないと言うのは、汚いものを見たくないという自己防衛のなれの果てなのかな。
役者さんはきっとそうしちゃいけないと思うのです。しかも意識せず、本能的に自分を捨てるすべを持つことが大事なのでしょうか。
ミケランジェロ・アントニオーニの話をまた。彼が作家として書いた短編の中のあるタイトルに「この泥の肉体」というのがあり、私は深く感銘を受けたことがあります。肉体はつまり泥なんだと思ったら、もう何でも受け入れられるというか、許せるというか、
変な自由感というのを感じたのです。
そして今回思ったこと。
役者さんが演じるということはその泥である肉体をさらにこねあげて、自分そっくりの泥人形をつくるというのに似てるのかな。
決して自分は特別な存在ではない。だからあらゆる人物になれる。泥の肉体とあふれる思いを使って・・・。
なんだか今日は撮影には関係ないことを書いてしまったかもしれませんが、実はそうでもない。だって岸谷さんのあの演技と小山田さんのおびえを見てしまったから。彼らの何かがほとばしったのを直接、目撃してしまったから。
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